複雑系の渦に落ちて

ダラダラ生きていきたい 

友情と恋愛的な惹かれの違いってなに!?②

chiyuki7658.hatenablog.com

 前回に引き続き、クィアの私の視点から恋愛と友情について掘り下げて行こうと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「恋人ほしい」はわからないが、友達や仲間への強い憧れはあることについて

 

そもそもなんで友達や仲間に憧れてる?

 

 友達と仲間というのもかなり広い概念なのですが、友達は、何かしらの共通の行為を共有したりできる関係性、仲間というのは何かを共有する点は友達と同じだが、社会課題など何かしらの目的や理念を共有できる他者くらいの意味合いで捉えています。

 

 私がこうした関係性に憧れを感じるのは、漠然とはしているのですが、社会的な問題について部分的にでも価値観を共有して、その課題について考えたりできる存在がほしいというのが理由の一つで、あとは他者と関わりを持つ方が私の硬直した考えを解きほぐす上で、メリットが大きいという自己中心的な理由もかなりあります。

 

 また、上述の理由だけでなく、恋人がほしいとは思っていない分、別のベクトルで他者とのつながりを求めようとする心の働きが生じている側面があるのかもしれません。

 

 ただし、こうした人との交流欲がどこから生じているのか自分でも分析しきれていませんし、そもそも恋人も、友達もどちらも大切にする人だっているので、人それぞれではあるのだと思いますが、少なくとも私の場合は、色々な側面から他者との関わりを求めているとは言えます。

 

 これに関しては、現状家族や親戚、通院している精神科の主治医とあとは不定期に会うコミュニティスペースの人くらいしか、他者との関わりがなく、中でも深いかかわりというと家族くらいしかないというのも、交流欲を強く持っている理由としては大きい気がします。その中でコミュニティスペースに関しては、交流のために参加することがあるのですが、よくも悪くも浅い繋がりにとどまることが多く、それはそれで楽しめることもあるのですが、中々知り合い以上の深い繋がりを築いたりは、難しい感覚があります。こうした狭い範囲での繋がりをもう少し広げたいというのも動機としてはあります。

 

 

 

 

創作物の影響?

 

 友達や仲間といった関係性に重きを置く背景には、意外とフィクションの影響も大きいのではないかと感じています。漫画作品などでも、友人や仲間といったかけがえのない関係性がよく描かれますし、百合表象やbl表象でも恋愛的なものやそこに括りきれないものも含めて、他者との関係性が少なくとも私にとって魅力的に写ります。児童文学などでも友情は重要な要素の一つですし、アニメ作品なども特に子供に焦点を合わせた作品などでは友情が描かれることが多くあります。

 

 小さい頃から、こうした創作物に触れてきたこと、また、恋愛的な要素には共感できなくとも*1友情を含めた関係性には、共感して見ていられたというのも、友情に重きを置く傾向の背景にあるのではないかと分析しています。

 

 

恋人や友達がいなくとも、安心して暮らせる方が良いけど...

 

 前提として、一人でも満足に生きていくことができる社会制度が構築されていくべきですが、そうはなっていない社会においては、多かれ少なかれ他者との関わりをせざるを得ません。私個人としても、一人でも生きられるような社会であったならば、他者と全く関わることなく過ごすことは堪えたかもしれないのですが、ここまで他者との繋がりに重点を置く考えには至らなかったかもしれないと思っています。

 

 今の社会、とりわけ日本においては、血縁主義とそれに基づく家族主義が色濃く残り、異性愛主義の枠組みに沿って、「家族」(結婚)とならない限りは*2制度的にも、あるいは社会的にも十分に保障されないという構造があり、そうした社会において血縁主義によらず、またその制度を下支えする異性愛主義的な枠組みにも乗らない形のコミュニティのあり方は、私が(あるいは他の人にとっても?)生きる上でとても重要なことのように思えます。

 

 

 

 

 

友達になりたい人のジェンダーセクシュアリティは関係するか?

 

 関係ないと言い切りたいところなのですが、現状では全く考慮に入れないというわけにはいかないというか、自然とクィアな人たちや、例えばシスヘテロであっても性愛や恋愛に重きを置いていない人たちの方が気が合う確率は高そうだという印象はあります。また今までの経験に即すると、いかにもシスヘテ男性的な振る舞いをする人とは、あんまり関わり合いになりたくないなという感情もあります。

 

 他には、社会的な問題意識や趣味、あと単純に気が合うかなどの共通項などはセクシュアリティよりも重要な要素ですが、これに関しても色んな点で気が合っても、例えばジェンダー周りの発言で問題含みだったり、クィアの存在を想定していなかったりすると、程度にもよりますが深く関係を築きたいとは思えないなとは考えています。これに関しては、仲良くしたいなら、思い切って指摘してみると言うのはあり得るかもしれないですが、これも場合によりけりでしょうし、友達作りにおいても色んな人と関係を築くのは意外と難しいなと感じます。

 

 

 

 

 

 

 パートナーシップを築く際に想定しうる問題について

 

 

パートナーシップの意味合い

私にとってのパートナーシップは、同居など生活空間や日常生活において共有する事柄が増えた際にお互いに明示化するルールのようなものだと考えていて、結婚なり、いわゆる「パートナーシップ制度」など公的な証明による拘束力を求める関係性とは異なった関係性だと考えています。ただし、パートナーシップ制度なりを「道具立て」として使うこと自体はあり得るかもしれないが、その場合も不和が生じた場合のリスクを鑑みた上で検討する必要がありそうで、それはそれで面倒くさそうという気持ちがあります。

 

 そもそも、公的に関係性を証明するという行為をいつまで続けるのかという問題もあるような感覚があり、せめてフランスのPACS*3のような制度であれば、まだ利用するハードルも低くなりそうですが、この場合も例えば二人以上で契約することは想定されていないから、何人かで住むとしたら、同じマンションの別々の部屋を借りるとか、シェアアパートメントにするとか、けっこう工夫が必要になりそうだなとか、特に予定はないけど考えたりしています。

 

 

性的関係を持つ男性とパートナーシップを築く場合は?

 

 その場合は、たぶん「ゲイ」向けマッチングアプリなどを介して出会うのでしょうが、まず私の感覚を説明する時点で骨が折れそうな気がしています。というかそのあたりが面倒くさいし、私の感覚が否定されそう、とか性愛関係にそこまで積極的でないみたいな感覚があまり共有されにくいというゲイコミュニティ(だけではない)の特徴も相まって、マッチングアプリは使いづらいというか、今も躊躇しています。

 

 肝心のパートナーシップを築く場合に関してですが、まず外形的に「男性」同士だとみなされることへのもやもやは、ホモフォビックな意味ではなくあるだろうとは想定します。ただ、この視線というのは、例えば性愛関係のない男性とパートナーシップを築いた際にも同様に向けられるだろうから、なんというかそんな外野の適当な決めつけに惑わされるのも馬鹿らしいし、気にしないという気持ちにはなるかもしれないです。

 

 

 

いわゆる「恋愛的」とされる行動すべてが嫌とは限らない?

 恋愛的とされる行動を許容するとしたら、ものにもよるでしょうが、基本的にはおそらく性愛関係を持つ男性とのあいだで発生することになると考えていますが、私はそもそも何が恋愛関係の構成要素かイマイチわかっていません。例えば性愛関係は「恋人」同士がするものみたいなイメージがあったりするけど、その前提からして誤っているし、他にはデート、スキンシップ、生活の共有ぐらいでしょうか?スキンシップに関しては、基本的に好きではないが、私の場合性愛関係のある対象となら許容できるような感覚があるので、場合により一応「可」くらい。デートに関しても、ロマンチックなムードはわからないけど、普通に遊びに行くノリであれば、誰とでも行くことができる気がします。生活の共有に関しては、ライフスタイルや価値観や感性の違いにより変わってくるとは思いますが、この場合も他者のジェンダーセクシュアリティに関係なくできる気がします。

 

 恋愛的とされる行動が必ずしも嫌とは限らないのですが、そもそも相手から恋愛的とされる感情を向けられること自体を不愉快に感じる可能性があるので、そもそも恋愛感情を向けてくる人とのパートナーシップの構築は、相手のためにも基本的に断るとは思います。(そもそも、私に大した人間的魅力がないから、恋愛感情を向けてくる人を心配する必要は薄そうだが)

 

 

「恋愛」パートナーとして見られるのは嫌か?

 これに関しては、「異性」カップルだとみなされることが個人的に一番嫌なので、外野がどのようにみなしたところで関係性が変わるわけではないけど、しんどいとは感じる気がします。「同性」同士とみなされる方がまだマシというか、少なくとも異性愛者に押し付けられる、生殖圧力や、その他あらゆる規範からは逃れられるため、その方がまだ良いかもという感覚です。

 

 ただ、こうして書いているうちに、パートナーシップを志向すること自体が、外野から勝手に名指されるうざさを伴うし、もっというと、他者と仲良くしようとする行為自体も、多くの場合異性愛的なものとしてみなされたりするし、色々考えてきたけどいっそのこと何もしないのも一つだよなという感情もあります。 

 

 話題が少し飛んでしまいますが、最近ACEやノンセク向けのオフ会や、具体的に何処かは忘れたけど、恋愛関係などを自身のセクシュアリティとは関係なくやらない、志向しない人たちで集まるみたいな前提があるコミュニティみたいなのもsnsかなにかで見た覚えがあってそれぞれすごく大事だなと思いました。

 

 また、こうしたオフ会などが都市部中心とはいえ、増えてきている?のはやはりそうした恋愛と性愛が結びついたクソ雑な感情を向けてきたり、決めつけてきたりする人たち(しかもほぼ異性愛)の中で関係性を築くことがあまりにも難しいというのも大きいのだろうかと推察します。

 

 

 

 

そもそも性的な惹かれとかと関係なく、性愛関係を重視したくないのだが

 

とはいえ折り合いは必要だし、そんなに単純に割り切れない

 

 色々と書いてきましたが、そもそも私の惹かれとは関係なく、そんなに性愛に重きを置いて人生をやっていく気はそんなにないです。ただ、性愛(対人との)周りに関しては、ゲイコミュニティの周縁にいる人として、性愛規範の影響は受けざるを得ないから、ゲイコミュニティに参加したりする機会が今後あったら、そのノリには「適応」した方が楽なのだろうなという感覚もあって、一言では言えないのですが、折り合いをつけて、あと嫌なことにはNOと言いながら模索していけたらなと思っています。

 

 まあ、性愛云々よりも、そこに焦点を当てずに、緩やかに色んな人々との交友関係を築くことに重きを置こうと思っています。

 

 

 

私にとっての理想の関係とは?

 

 私にとって理想の関係がどういったものなのかイマイチわかっていないのですが、例えば「夜明けのすべて」、「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」といったフィクションや、現実でもpodcastをされている人で、長年の友人関係を築かれている人の掛け合いなどを見ると、憧れを覚えたりします。

 

 ただ、現実の人間関係で、理想の友人を求めることは、理想の恋人を求めることと同じくらいには、困難なことのように思えるので、特定の大親友みたいな関係性よりも、もっと色んな繋がりを浅くても良いから築くことに重きを置きつつ、むちゃくちゃ気が合う友達や仲間ができたら、podcastで配信するくらいの心持ちで構えているのが良いかなという感じで捉えています。

 

 

 

終わりに

 こうして書いてみても、なんだかとりとめがなく、結局友情と恋愛の違いを明確に言語化できたとは到底思えないのですが、この不明瞭さや、その中でも、これは嫌だけど、これは大丈夫みたいなことがわかってきた所があるので、私にとっては意義がありました。今後も友達に関する感覚や、他のセクシュアリティに関するトピックなどは定期的に取り上げて見ようと思っています。

 

 

 

 

*1:百合、bl表象、またそれらを内包しうるクィア表象における恋愛表象も、恋愛要素そのものより、彼らが置かれる社会的な差別や偏見、また彼らの関係性の強さというか、尊さに感情移入して見ている

*2:もし異性カップルが結婚したとしても、安心して過ごせる社会とはいえないが

*3:性別に関係なく、成年に達した二人の個人の間で、安定した持続的共同生活を営むために交わされる契約のこと